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矢がなくなっても大丈夫 ~足利尊氏・直義ゆかりの寺 浄光明寺~

鎌倉幕府最後の執権,、第16代赤橋(北条)守時や、足利尊氏・足利直義兄弟ゆかりの浄光明寺は、閑静な住宅街の中にあり落ち着いた佇まいを見せいていますが、重要文化財の仏像や伝説を抱えた地蔵菩薩があるなど、静かながらも見どころの多いお寺です。

更新状況

  • 2022年4月10日:浄妙寺へのリンクを設定・国指定史跡について追記
  • 2021年11月15日:記事掲載

浄光明寺とは

浄光明寺:入り口付近

浄光明寺:入り口付近

浄光明寺は、鎌倉市扇ガ谷にある真言宗の寺院。山号は泉谷山(せんこくざん)、1251年(建長3年)に鎌倉幕府第6代執権北条長時(ながとき)が開基となり、真阿(しんあ)(真聖(しんしょう)国師)を開山として創建した寺院です。

第6代執権北条長時から始まる赤橋流北条氏の菩提寺として位置づけられ、特定の宗派にとらわれない諸宗兼学の寺として、浄土、華厳、真言、律に秀でた僧が集う鎌倉有数の大寺院でした

開山と開基の違いは何かな?
こん吉
管理人 sho
そうだね、ざっくり言うと、「開山」は最初の住職、「開基」は有力武士や貴族などの「スポンサー」といったところかな。

鎌倉幕府滅亡後は、後醍醐天皇の皇子である成良(なりよし)親王の祈願所となるとともに、足利尊氏・直義(ただよし)兄弟の帰依を受けました。

足利尊氏は、1335年(建武2年)の中先代の乱の後、後醍醐天皇との対立を深めたため、暫くの間この寺に蟄居していたとも伝えられます。

室町時代に入っても鎌倉公方(京都に幕府があった室町時代に鎌倉に置かれた幕府の役所の最高責任者)の第一公方足利基氏(もとうじ)、第二公方の足利氏満(みつうじ)の分骨が納められるなど足利氏との結びつきを強くしていましたが、鎌倉公方移転後は寺勢は衰えていきました。

管理人 sho
重要文化財の仏像や足利直義ゆかりのお地蔵さんなど見どころも多いね。
早速境内を歩いてみよう。
こん吉

浄光明寺は、鎌倉十三佛(第9番)、鎌倉三十三観音(第25番)、鎌倉二十四地蔵(第16番、第17番)、などの鎌倉霊場、鎌倉名所巡りの対象地にもなっています。また、浄光明寺入り口近くには鎌倉十井の一つである泉ノ井もあります。

浄光明寺を散策しよう

浄光明寺:境内案内図

浄光明寺:境内案内図

境内案内図:受付でいただいたチラシをスキャンしました。

英勝寺ゆかりの山門から境内へ

浄光明寺:山門

浄光明寺:山門

浄光明寺入り口を示す石碑のところを曲がり参道を進むと浄光明寺の山門があります。この山門は、もとはこの近くにある英勝寺の惣門でした。大正関東地震により倒壊した後一時民間の手に渡りましたが、1926年(大正15年)に浄光明寺に寄進されたもので、英勝寺が創建された江戸時代初期のものではないかと考えられています。

管理人 sho
英勝寺については以下のリンクをご覧ください。

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山門をくぐると右手に鐘楼があり、その奥には不動堂があります。

浄光明寺:不動堂

浄光明寺:不動堂

この不動堂には不動明王坐像(八坂不動)があります。平安時代に京都の八坂の塔が傾いたとき浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)という僧が本尊に祈り傾いた塔を元に戻したという伝承からこの名があり、毎年大晦日の除夜の鐘が鳴る間だけ公開されます。

浄光明寺:客殿

浄光明寺:客殿

境内左側の客殿には、元寇に際して敵国調伏の祈祷の本尊と伝えられる愛染明王坐像があります(非公開)。その奥には庫裏があり、ご朱印はこちらの庫裏でお願いすることになります。

境内は国指定史跡となっています。

階段を登って本尊阿弥陀三尊像のある境内中段へ

浄光明寺:仏殿へ向かう階段

浄光明寺:仏殿へ向かう階段

仏殿の脇を進んで階段に向かいます。正面の階段は使用禁止となっているため右側にある階段で上に登ります。

仏殿(阿弥陀堂)や収蔵庫のある寺院の中段部分は公開日が限定されている上に、雨が降ると公開されません。公開されている場合は階段手前の通路の脇に、公開している旨の案内が出されます。

浄光明寺:公開を知らせる案内板

浄光明寺:公開を知らせる案内板

公開曜日:木曜日、土曜日、日曜日、祝日(ただし雨天時は非公開)、8月は拝観休止

新型コロナ感染症拡大防止の観点から公開休止の可能性もありますのでご注意ください。

階段を登り切ってまず目にするのは大きなイヌマキの木。寺院創建時に植えられたと考えられることから推定樹齢は750年を越えます(かまくらと三浦半島の古木・名木50選)。

浄光明寺:イヌマキ

浄光明寺:イヌマキ

浄光明寺:イヌマキ

浄光明寺:イヌマキ

イヌマキの後ろに建つ建物は、この寺の本堂に当たる仏殿です。かつてはここに本尊の阿弥陀三尊像を安置していたことから阿弥陀堂と呼ばれています

浄光明寺:仏殿

浄光明寺:仏殿

この建物は、1668年(寛文8年)に鶴岡八幡宮寺の元橋僧都(そうず)が母の供養のために再興した建物です。

現在の堂内本尊は阿弥陀仏・釈迦・弥勒の三世代(過去・現在・未来)仏のほかに、浄光明寺の開山である真聖国師の像や、開基である北条長時の像などを安置しています。

浄光明寺:収蔵庫

浄光明寺:収蔵庫

仏殿に向かって左側にある収蔵庫には、もとの本尊である阿弥陀三尊像(国の重要文化財)が安置されています。中世の鎌倉のみで流行した「土紋(どもん)」と呼ばれる装飾技法が施された仏像としては最古のものとなります(脇侍は観音菩薩・勢至菩薩)。

収蔵庫内向かって左側には南北朝時代に造られた地蔵菩薩立像(矢拾地蔵)があります。衣文(えもん:仏像のひだ)には截金(きりがね:金や銀などを細く切って筆端につけて貼りながら文様を描き出す技法)文様が施され、右手には矢柄の錫杖を持っているそうですが、収蔵庫内にあるため細かい部分を観察することは出来ません。

矢拾地蔵の伝説とは

足利直義が戦場で矢を射つくして困っていると、見知らぬ小僧が矢を拾い集めて差し出し、その窮地を救ってくれたといいます。不思議に思った直義が館に戻って地蔵を見ると手に矢を持っていたとのことです。

管理人 sho
足利直義の墓がある浄妙寺については下記リンクを参照してください。

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浄光明寺:大伴神主家墓所

浄光明寺:大伴神主家墓所

仏殿向かって右側には、大伴神主家(おおともかんぬし)家の墓所があります(上の写真)。

大伴家は、代々鶴岡八幡宮の神主を務め、記録上は第10代から、確認されたものとしては第15代から23代までの墓があります。

墓塔の前面には錫や鳥居が表され、神道特有の墓塔として他に類を見ない貴重な史跡となっています。

浄光明寺:赤橋守時墓

浄光明寺:赤橋守時墓

浄光明寺:赤橋守時墓

浄光明寺:赤橋守時墓

収蔵庫の隣りは観音堂となっており、その奥には、赤橋(北条)守時の墓とされる石塔があります。

赤橋(北条)守時とは

浄光明寺の開基である第6第執権北条長時の曽孫(ひ孫)であり、鎌倉幕府第16代執権を務めた人物で、妹の赤橋登子は足利尊氏の正室となっています。1333年(元弘3年)、新田軍による鎌倉攻めの際、激戦の末自刃したとされています。

さらに階段を登って上段へ 網引地蔵と冷泉為相(ためすけ)の墓

浄光明寺:観音堂近くの地蔵と石段

浄光明寺:観音堂近くの地蔵と石段

赤橋守時の墓の横にある階段を暫く登ると開けたところに出ます。前方正面にはやぐらがあり、内部に石造の地蔵菩薩坐像があります。

浄光明寺:網引地蔵のやぐら

浄光明寺:網引地蔵のやぐら

浄光明寺:網引地蔵

浄光明寺:網引地蔵

この地蔵は、漁師の網にかかり海から引き揚げられたとの伝承から網引地蔵と呼ばれています。背中の銘文には1313年(正和2年)に供養されたことが記されており、また、冷泉為相によって造立されたとも伝えられています。

浄光明寺:冷泉為相の墓とされる宝篋印塔

浄光明寺:冷泉為相の墓とされる宝篋印塔

網引地蔵の前からさらに上に登ると、冷泉為相(れいぜいためすけ)の墓とされる宝篋印塔があります。

冷泉為相は、「十六夜日記」の作者として知られる阿仏尼(あぶつに)の実子で、浄光明寺の西北の谷である藤ヶ谷に住み、鎌倉歌壇の指導者として活躍しました。

為相は、相続を巡って異母兄と争い、しばしば鎌倉に滞在し、武士や第8代将軍久明(ひさあきら)親王と親しくなりました。

訴訟は長引き為相51歳の時にようやく勝訴が確定したものの、その後も京と鎌倉の間を往復し、1328年(嘉歴(かりゃく)3年)に66歳でこの世を去りました。

宝篋印塔は、相輪(仏塔の頂上の飾り)が欠けているものの、南北朝初期頃の形式をよく伝えているといわれています

冷泉為相の墓からさらに登ったところに浄光明寺五輪塔(多宝寺覚賢塔・国指定重要文化財)がありますが、例年4月上旬の「鎌倉まつり」開催期間中のみの公開となっており、私はまだ見たことがありません。

もう一つの重要文化財、浄光明寺敷地絵図

鎌倉幕府滅亡の後に寺の関係者が寺領を保護してもらうため、足利直義の執事である上杉重能(しげよし)に差し出しその許可を得たもの。浄光明寺の歴史のみならず、中世都市鎌倉の歴史を考える上で大変貴重な史料となっています(鎌倉国宝館に寄託)。

浄光明寺墓地はやぐらの宝庫

浄光明寺を出て路地を入り暫く歩くと、浄光明寺の墓地があります。墓地の崖の部分はやぐらがずらりと並んでいていろいろな形のやぐらを観察することが出来ます。また、劇作家として知られる井上ひさし氏の墓も、この墓地の少し高くなったところにあります。

管理人 sho
現役の墓地として利用されているやぐらも多く、写真撮影は少なめです。
浄光明寺:墓地のやぐら

浄光明寺:墓地のやぐら

浄光明寺:墓地のやぐら

浄光明寺:墓地のやぐら

鎌倉十井のひとつ 泉ノ井

浄光明寺を出て20~30メートル歩いたところに、鎌倉十井(じっせい)のひとつである泉ノ井があります

徳川光圀の「鎌倉日記」には、「泉井谷ノ辺ニ潔キ水涌出ル也」との記述があります。この辺りは泉ヶ谷(いずみがやつ)とも呼ばれますが、これはこの井戸の名からきているといわれています。

泉ノ井

泉ノ井

泉ノ井

泉ノ井

浄光明寺の花

浄光明寺の花としては秋に咲くハギを挙げておきます。ハギの花は客殿前や客殿と不動堂の間の通路付近に咲いています。

浄光明寺:客殿前に咲くハギ

浄光明寺:客殿前に咲くハギ(2020年9月撮影)

ご朱印

ご朱印は数種類ありますが、今回はご本尊をお願いしました。「宝冠阿弥陀如来」と、実に美しい書体で書かれています。

浄光明寺ご朱印(阿弥陀如来)

浄光明寺ご朱印(阿弥陀如来)

鎌倉観光文化検定対策

鎌倉観光文化検定公式サイトに過去問の記載がある第11回(2017年度実施)以降の鎌倉観光文化検定(以下、「鎌倉検定」)2級および3級の出題の中から、浄光明寺について、出題状況や傾向を検討します。※問題文は一部改変する場合があります。

2020年度・2021年度の鎌倉検定は中止となっていますのでご留意ください。

傾向と対策

第11回から第13回では2級、3級とも一題ずつの出題と出題数が少なくなっています。ただし、2級の問題は浄光明寺のことだけをわかっていれば正答できるわけではなく、難易度が高いです。

  • 浄光明寺に祭られている地蔵菩薩立像は何と呼ばれるか(第11回・3級)⇒正答:矢拾地蔵
  • 扇ヶ谷所在の寺を開山年代の古い順に並べるとき、正しい順序はどれか(第11回・2級)⇒正答:壽福寺→浄光明寺→薬王寺→海蔵寺

2問目の開山年は次のとおりです。

①壽福寺:1200年②浄光明寺:1251年③薬王寺:1293年④海蔵寺:1394年
特定地域の寺院の開山年を記憶しておかないといけないのでしっかりした知識の整理が必要ですね。

浄光明寺のまとめ

  • 浄光明寺は、扇ガ谷の閑静な住宅街にある真言宗の寺院
  • 国指定重要文化財の阿弥陀三尊像や矢拾地蔵、網引地蔵など、文化財や伝承も豊富
  • 裏山には阿仏尼の実子、冷泉為相の墓といわれる石塔も
  • 日本遺産「いざ、鎌倉~歴史と文化が描くモザイク画のまちへ~」の構成資産

いかがでしたでしょうか。浄光明寺の概要についてひととおりまとめましたが、もしも気になるようでしたらお出掛けされてはいかがでしょうか。

交通アクセス


鎌倉駅西口から徒歩およそ15分です。

連絡先 泉谷山浄光明寺
鎌倉市扇ガ谷2-12-1
TEL:0467-22-1359

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