施餓鬼会は仏教の重要な法会のひとつ。北鎌倉にある名刹建長寺では、通常の施餓鬼会のほかに鎌倉幕府の重臣であった梶原景時のためにもう一度施餓鬼会が行われます。
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- 2024年7月14日:記事掲載
この記事の目次
施餓鬼会とは
仏教においては死後に輪廻転生する6つの世界(六道)があるとされ、その一つに餓鬼道がありあます。
六道のひとつである餓鬼道は前世の行いがよくなかった場合に陥る世界で、餓鬼は食べ物や飲み物を一切口にすることができないことから、餓鬼たちに食べ物や飲み水を与える法会を行いますが、これを施餓鬼会といいます。
この施餓鬼会は寺院によって実施時期がまちまちで、建長寺では毎年7月15日の朝8時から行われています。
梶原景時とは
梶原景時は鎌倉時代初期の武将。もとは平家方でしたが、石橋山の戦いで敗れた源頼朝を助けたことから、頼朝に仕え鎌倉幕府の重臣となりました。
頼朝亡き後は13人の宿老の一人となり幕府を支えましたが、御家人たちから弾劾を受けて失脚し、当時の駿河の国(現在の静岡県)で討ち死にしたとされています。
言い伝えによると、建長寺が開かれて間もないころ、施餓鬼会が終わると一人の武将が現れ、施餓鬼会が終わったことを知ると残念そうに去っていきました。開山の蘭渓道隆(大覚禅師)が傍らの僧に武者を追わせてもう一度施餓鬼会を行ったところ、武者はたいそう喜び、自分は梶原景時の亡霊であると言って去っていったとのこと。以来建長寺では、通常の施餓鬼会の後梶原景時のためにもう一度施餓鬼会を行うのが習わしとなっています。
建長寺三門梶原施餓鬼会に行ってみよう
施餓鬼会は朝8時から
朝8時前に建長寺三門前に到着すると既に大勢の見学者が集まって、施餓鬼会の開始を待っていました。
三門の前には施餓鬼会用の祭壇がしつらえてあります。
祭壇にはササのほかに位牌や餓鬼に与える野菜などの食べ物、そして施餓鬼旗と呼ばれる五色の旗が並べられています。
施餓鬼会の様子
三門では僧侶が勢ぞろいし管長の到着を待ちます。
国宝の鐘が鳴り施餓鬼会が始まります。普段聞くことができない国宝の鐘の音を聞くよい機会です。
管長を中心に読経が始まります。まるで歌を歌うかのような独特の雰囲気の読経が辺りを包み込みます。
やがて「水向け」の儀式となります。水向けとは桶に汲まれた「閼伽水(あかすい)」をまいて餓鬼に水や食べ物を施す儀式です。
管長に続いて他の僧侶たちも順番に水向けの儀式を行います。
水向けが終わると僧侶たちが三門の前を読経しながらぐるぐると歩きます。
三門前を歩く僧侶たちが履いている靴にご注目。建長寺には宋風の要素が随所に残されているといわれています。僧侶たちが履いている靴にも宋風の特徴が見てとれます。
やがて管長が三門を後にします。しかし、僧侶たちによる読経は引き続き行われます。
管長が去った後も残された僧侶たちにより読経が続けられています。実は管長がいなくなってからが梶原景時のための施餓鬼会となります。
朝8時から始まった施餓鬼会も1時間ほどですべてが終わります。その後は一般の参列者も祭壇にお参りすることができます。
三門脇のベンチには、梶原景時ゆかりの「瀬名・梶原会」の方々などが施餓鬼会を見守っていました。
瀬名・梶原会とは
建長寺法堂と唐門
三門梶原施餓鬼会が終わった後、法堂(はっとう)に立ち寄りました。法堂はもともと修行僧たちが住職の説法を聞くところであり、現在では寺院のいろいろな行事が行われる場所となっています。
法堂の天井には、は建長寺の創建750年を記念して、鎌倉市内に在住していた日本画家である小泉淳作画伯による雲龍図が描かれています。
法堂に向かって左側少し後ろにある唐門前ではハスの花がきれいに咲いていました。
Youtube 動画(ショート動画)
https://youtube.com/shorts/89J7ZNFBZdc
https://youtube.com/shorts/89J7ZNFBZdc
建長寺への交通アクセス
JR北鎌倉駅から駅から徒歩およそ15分
三門梶原施餓鬼会のまとめ
- 北鎌倉の名刹建長寺では毎年7月15日に三門梶原施餓鬼会が行われる。
- 梶原景時は鎌倉幕府の重臣だったが御家人らの弾劾に遭い失脚し現在の静岡県内で討ち死にした。
- 通常の施餓鬼会の後に続けて梶原景時の亡霊を弔うために施餓鬼会が行われる。
いかがでしたでしょうか。建長寺の三門梶原施餓鬼会の概要についてひととおりまとめましたが、もしも気になるようでしたらお出掛けされてはいかがでしょうか。
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参考文献