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13人の宿老 比企能員ゆかり ~妙本寺~

妙本寺は鎌倉駅の近くにありながら緑豊かな谷戸(比企谷・ひきがやつ)に位置している静かなお寺です。鎌倉幕府の将軍「鎌倉殿」の13人の宿老のひとり、比企能員(よしかず)ゆかりの地であり、境内には非業の死を遂げた比企一族の供養塔があります。

夏の暑い日に祖師堂の縁側に座って蝉の声に耳を傾けていると、涼しさのあまり眠くなりついうとうとしてしまいます。

更新状況

  • 2024年3月9日:ノウゼンカズラの写真を追加
  • 2023年7月11日:2023年3月に撮影したカイドウの写真(クローズアップ)を2枚追加、鎌倉検定第16回の設問と回答を記載
  • 2022年8月14日:若狭局の墓と源よし子の墓を追記
  • 2022年4月29日:記事掲載

妙本寺とは

妙本寺:総門

妙本寺:総門

妙本寺は、かつて比企一族の館があった比企谷(ひきがやつ)にある日蓮宗の寺院で、山号は長興山(ちょうこうさん)、開山は日蓮、開基は、有力な御家人だったが北条時政に滅ぼされた比企能員の子、能本(よしもと)とされています。

山号の長興は能本の父能員、寺号の妙本は母の法号にちなむといわれています。

鎌倉幕府の13人の宿老であった比企能員は、頼朝挙兵以来の重臣であり、養母比企尼(ひきのあま)は、頼朝の乳母(めのと)として、伊豆に流された頼朝を助けました。

能員の妻(比企尼の娘)は、北条政子の子である源頼家の乳母となりました。頼家の成人後は、頼家の寵愛を受けた能員の娘若狭局(わかさのつぼね・または讃岐局(さぬきのつぼね))が、頼家との間に一幡(いちまん)を設けました

能員は権勢を増し、頼家の弟である千幡(せんまん・後の源実朝)を擁立して実権を握ろうとする北条時政と対立します。

能員は頼家と謀って北条氏追討を画策するものの、逆に名越の北条時政邸で討たれ、比企一族は6歳の一幡を擁して北条義時を始めとする北条氏と戦い敗れ、比企一族は滅亡しました。この事件(比企氏の乱)後、実朝が将軍となり、頼家は伊豆修善寺で暗殺されました。

比企の乱の際、比企能本は幼少であり京都にいたため難を逃れ、日蓮に自宅を献上したのが妙本寺の始まりとされています。

お断り

  • 若狭局と讃岐局が同一人物かどうかについては諸説あり確定はしていないようです(「新編相模風土記稿」には「能員の女讃岐局初は若狭局と云う」との記述もあるとのこと)。

 

妙本寺を散策しよう

境内案内図

方丈門から本堂へ

妙本寺:方丈門

妙本寺:方丈門

総門をくぐって暫くと歩くと方丈門があります(上の写真)。右側の舗装路を歩く人が多いかもしれませんが、今回は方丈門から境内に向かいます。

方丈門をくぐって階段を登ります。途中左手にはトイレがあり、ここを過ぎると、寺務所と書院、本堂の前に出ます

妙本寺:本堂

妙本寺:本堂

旧寺務所・書院は江戸末期の建物だったようですが、大正関東地震(関東大震災)で倒壊し、昭和7年に再建されました。書院は、春秋彼岸会、施餓鬼会などの控室であり、写経などの催し物も行われます。ご朱印の受付もこちらになります。

本堂は昭和6年に建てられたもので、本尊である「一尊四士」を祭り、その前に日蓮像が安置されています。

「一尊四士」とは

釈迦如来の左右に「法華経」に説かれる上行(じょうぎょう)、無辺行(むへんぎょう)、浄行(じょうぎょう)、安立行(あんりゅうぎょう)の各菩薩を配置するもので、日蓮宗特有の尊像形式のこと。

釈迦如来像の背銘によると、この像は1677年(延宝5年)、豊後岡藩(現在の大分県)の第4代藩主である中川佐渡守久恒が大願主となって造られたとのことです。

妙本寺:鐘楼

妙本寺:鐘楼

鐘楼横を歩いて二天門前に進みます。

妙本寺:鐘楼脇の道を二天門方面へ

妙本寺:鐘楼脇の道を二天門方面へ

仁王門ではなく二天門

妙本寺:二天門 横たわる龍の彫刻

妙本寺:二天門 横たわる龍の彫刻

二天門は、1840年(天保11年)の建立で、寺院に一般的に見られる仁王門と違い、持国天と多聞天を安置していることから二天門と呼ばれています。

堂々とした弁柄塗りの門で、龍を始めとした見事な彫刻が施されています。写真の位置に立って門を見上げると、2体の獅子がこちらを見つめているようにも見えます。

管理人 sho
二天門の二百数十三歩後ろで柏手を打つと龍が鳴くとか鳴かないとか。
おいら4本足だから何歩下がればいいのかな??
こん吉

中央の龍の彫刻は平成の大改修で極彩色の色を取り戻しました。

比企一族供養塔

妙本寺:一幡之君袖塚

妙本寺:一幡之君袖塚

二天門をくぐった右側、竹垣に囲まれた一角に、「一幡之君袖塚」があります

比企能員の孫、源頼家の子一幡(いちまん)は、比企の乱で命を落とします。比企邸内の小御所(一幡の居館)に立てこもりましたが、小御所は焼け落ち、焼け跡から見つかった亡き骸に、一幡が着ていた小袖の文様がわずかに焦げ残っていたのが認められ、その遺骨を供養したという話に由来する塚です。

妙本寺:比企一族の墓(供養塔)

妙本寺:比企一族の墓(供養塔)

一幡之君袖塚の先の山裾に比企一族の墓(供養塔)があります。開基の比企熊本は、日蓮に帰依して日学と称したとされています。ここに並ぶ4基の五輪塔は、右側から日学夫妻・比企能員夫妻のものとなっています。

私が撮影した上の写真では、4基の五輪塔のうち一番右側の五輪塔の上部がなくなっています。どこかに落ちてしまったのでしょうか。妙本寺の公式サイトでは、4基の五輪塔が完全な姿で並んでいる様子を見ることができます。

比企一族の墓(供養塔)とカイドウ

比企一族の墓(供養塔)とカイドウ

比企一族の墓(供養塔)とロウバイ

比企一族の墓(供養塔)とロウバイ

比企一族の墓(供養塔)の右後ろ側に小さな階段があり、その上のイチョウの木(鎌倉市指定天然記念物)の脇に小さな石塔があります。比企一族滅亡の際に命を落とした若狭局(または讃岐局)の墓とされる石塔で、今でも花が手向けられています。

管理人 sho
墓碑銘は「讃岐局蛇苦止霊之墓」となっています。
妙本寺:若狭局の墓

妙本寺:若狭局の墓

開祖日蓮を祭る祖師堂

妙本寺:祖師堂

妙本寺:祖師堂

境内奥に向かって正面に祖師堂があります。日蓮宗の開祖である日蓮(祖師)を祭った堂々とした建物で、中央の厨子に日蓮聖人を、向かって右脇に日朗聖人、左脇に日輪聖人を祭っています。

祖師堂は江戸時代の天保年間に再建された建物で、鎌倉では最大規模の大きさを誇る建物です。細部に彫刻も施されていいて、象・獅子・竜・菊などを見ることが出来ます。

四代将軍九条頼経の妻 源よし子の墓

妙本寺:源よし子の墓

妙本寺:源よし子の墓

祖師堂正面に向かって左側、緩やかな階段を登り墓地を通り抜けると突き当りの生垣に囲まれたところに源よし子の墓があります(「よし」の漢字は女偏に「美」)。

源よし子(または竹の御所(たけのごしょ))は、鎌倉幕府二代将軍源頼家の娘で、14歳の時に三代将軍源実朝の養女となりました。

実朝が公卿に暗殺され源氏の正統がが途絶えたのちに、京都から迎えられた九条頼経が第四代将軍となります。源よし子が28歳の時に13歳の将軍頼経と結婚しましたが、4年後に男児を死産し、自身も命を落としたそうです。

帰りに蛇苦止堂に立ち寄り

妙本寺:木立の中を行く

妙本寺:木立の中を行く

帰りは二天門をくぐって階段を降り、木立の間を歩きます。方丈門のところで右に曲がり、正面の階段を登ると、蛇苦止堂(じゃくしどう)があります

妙本寺:蛇苦止堂

妙本寺:蛇苦止堂

蛇苦止堂は、比企一族滅亡の際に一族とともに運命を共にした若狭局を妙本寺の守り神(鎮守)である蛇苦止明神(じゃくしみょうじん)として祭るお堂です。

蛇苦止堂の言い伝え

比企の乱の後およそ50年頃のこと、執権を助ける役職である連署であった北条政村の娘が何かに取りつかれて苦しみました。娘の口を借りて若狭局が「自分は蛇となり比企谷の土中で苦しみを受けている」と訴え、八幡宮の別当である隆弁僧正(りゅうべんそうじょう)の加持祈祷により。政村の娘も平癒したとのことです。

蛇苦止堂の右手前蛇形の井(じゃぎょうのい)があります。ここは比企一族滅亡の際に若狭局が家宝を抱いて身を投げたといわれる井戸(一説には池に身を投げたとも)で、若狭局は蛇に化けて今でも家宝を守っていると言い伝えられています。

妙本寺:蛇苦止堂の井戸

妙本寺:蛇苦止堂の井戸

妙本寺:蛇苦止堂の池

妙本寺:蛇苦止堂の池

 

妙本寺の花と葉

春 サクラ カイドウ

妙本寺:日蓮像とサクラ

妙本寺:日蓮像とサクラ

3月の下旬になると、日蓮像や二天門近くのサクラが美しく咲きます。

サクラと並んでカイドウも妙本寺を代表する花です。

妙本寺:祖師堂前に咲くカイドウ

妙本寺:祖師堂前に咲くカイドウ

祖師堂前に咲くカイドウ(2023年3月撮影)

祖師堂前に咲くカイドウ(2023年3月撮影)

祖師堂前に咲くカイドウ(2023年3月撮影)

祖師堂前に咲くカイドウ(2023年3月撮影)

祖師堂に向かって左側にカイドウが植えられています。詩人中原中也は、昭和12年4月に評論家の小林秀雄と、ここでカイドウを見たことを日記に記しています。

小林秀雄は「中原中也の思ひ出」に、その時の中也への思いと、毎年花見をしたことやその後カイドウが枯れ死したことなどを記しています。

現在ここに咲くカイドウは3代目のものです。

夏 ノウゼンカズラ

妙本寺:二天門近くに咲くノウゼンカズラ

妙本寺:二天門近くに咲くノウゼンカズラ

妙本寺:二天門近くに咲くノウゼンカズラ

妙本寺:二天門近くに咲くノウゼンカズラ

妙本寺:二天門近くに咲くノウゼンカズラ

妙本寺:二天門近くに咲くノウゼンカズラ

鎌倉でノウゼンカズラといえば妙本寺ですね。

冬 ウメ

妙本寺:祖師堂横に咲くウメ

妙本寺:祖師堂横に咲くウメ

祖師堂向かって左手に数本のウメの木があります。

ご朱印

今回はご朱印はいただいていません。

鎌倉観光文化検定対策

鎌倉観光文化検定公式サイトに過去問の記載がある第11回(2017年度実施)以降の鎌倉観光文化検定(以下、「鎌倉検定」)2級および3級の出題の中から、妙本寺について、出題状況や傾向を検討します。※問題文は一部改変している場合があります。

2020年度・2021年度の鎌倉検定は中止となっていますのでご留意ください。

傾向と対策

出題傾向としては、開基に関するものや二天門近くに咲く花を問うもの、中原中也と小林秀雄に関するものなど、様々です。

  • 比企一族の邸宅跡で、比企能員の子、能本が開基となった寺はどこか。(第11回・3級)⇒正答:妙本寺
  • 7月上旬から8月上旬にかけて、妙本寺二天門の背後に鮮やかな色をつける花は何か。(第12回・3級)⇒正答:ノウゼンカズラ
  • 一族の邸宅跡に建てられており、一族の供養塔もあることから、妙本寺と縁の深い人物はだれか。(第12回・3級)⇒正答:比企能員
  • 妙本寺の寺号の由来は何か。(第13回・3級)⇒正答:開基とされる人物の母の法号
  • 2代将軍の外戚となり、権力を振るったが、北条氏討伐の企てが北条政子に知られ、名越の北条時政邸で謀殺されたと伝わる人物はだれか。(第13回・3級)⇒正答:比企能員
  • 〔 ① 〕の境内のカイドウの木陰で、『無常といふ事』などのエッセイや評論で知られる〔 ② 〕が詩人中原中也と語り合ったと著書に書いている。中原中也が若くして亡くなると、まもなくその樹木も枯れたといわれ,現在は3代目になっている。(第11回・2級)⇒正答:①妙本寺②小林秀雄
  • 寺院や地域とそこにある碑に刻まれた詩歌の作者 (第13回・2級)⇒正答:妙本寺 国木田独歩
  • 妙本寺はサクラの名所であるが,本堂前で見ごとな花を咲かせるのは何ザクラか。(第16回・2級)⇒正答:シダレザクラ

国木田独歩は、自身の詩の中で妙本寺を歌ったとされていますが、妙本寺の境内に国木田独歩に関する碑があるかどうかは定かではありません。

妙本寺のまとめ

  • 妙本寺は、鎌倉駅東口から歩いておよそ8分のところにある日蓮宗の寺院
  • 鎌倉殿に仕えた13人の宿老の一人、比企能員を始めとする比企一族の館跡に建てられた寺院
  • 境内には、比企一族の墓とされる供養塔や、小林秀雄・中原中也ゆかりのカイドウ、夏にはノウゼンカズラなどが咲く
  • 日本遺産「いざ、鎌倉~歴史と文化が描くモザイク画のまちへ~」の構成文化財

いかがでしたでしょうか。妙本寺の概要についてひととおりまとめましたが、もしも気になるようでしたら妙本寺にお出掛けされてはいかがでしょうか。

交通アクセス

鎌倉駅から徒歩およそ8分

連絡先 長興山妙本寺 鎌倉市大町1-15-1
TEL:0467-22-0777
公式サイト 妙本寺公式サイト

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